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新罗九州

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新罗九州统一新罗模仿中原的九州制度而建立的九个州。

新罗九州

在唐朝帮助新罗灭亡高句丽和百济后,新罗模仿中原的九州制度,认为“始备九州”,仿照唐朝,建立起自己的新罗九州五岳。统一新罗的九州为:良州尚州康州熊州全州武州汉州朔州溟州

统一新罗的首都仍然为古代新罗王国首都金城,今大韩民国庆尚北道庆州市(朝鲜语:경주시),地处当时的尚州;古代百济王国首都泗沘地处当时的熊州;而高句丽王国的首都平壤刚开始不在新罗九州之列。

统一新罗的五岳为: 吐含山(土含山)为东岳、鸡龙山(界龙山)为西岳,地理山(支离山)为南岳、妙香山为北岳(但不在新罗国境内)、八公山(父岳)为中岳。

旧領 創設時点 九州完成時点(687年) 景德王
改称(757年)
備考、異称、移転(州治)
州名 州治的現在地名 創設年 州名 州治的現在地名
新羅 上州 慶尚北道尚州市 525年 沙伐州 慶尚北道尚州市 尚州 甘文州(金泉市)、一善州(龟尾市
下州 慶尚南道昌寧郡 555年 歃良州 慶尚南道梁山市 良州 比斯伐州、大耶州(陕川郡)、押督州(慶山市
居烈州[1] 慶尚南道居昌郡 685年 菁州 慶尚南道晋州市 康州 居昌郡早在信史前已有人居住,當時是三韓中的居陀國,後來成為了伽耶的一部份。685年、居烈州由菁州分割設置。
百済 所夫里州 忠清南道扶余郡 671年 熊川州 忠清南道公州市 熊州 西元538年,百濟聖王將都城自熊津(今公州市)遷移至泗沘,即今日的扶餘郡。扶餘做為百濟首都,至660年新羅唐朝聯軍滅百濟,統一新羅時期設扶餘縣[2]
發羅州 全羅南道羅州市 671年?[3] 武珍州 光州广域市 武州 古代百济时代光州地区属于武珍郡,686年,武珍郡升格为武珍州[2]
完山州 全羅北道全州市 685年 完山州 全羅北道全州市 全州 全州的歷史始於百濟時期的完山。685年:新羅設置完山州。 757年, 改稱全州[4]
高句麗 悉直州 江原道三陟市 505年 河西州 江原道江陵市 溟州 何瑟羅州[5]
新州 京畿道广州市 553年 漢山州 京畿道广州市 漢州 南川州(利川市
比列忽州 江原道安边郡 556年 首若州[6] 江原道春川市 朔州 達忽州(高城郡)、牛首州
設置的小京
(括号内为景徳王改称)
設置年次 原地名 現在地名 所属州
国原小京(中原京) 557年(真興王18年) 高句麗:国原城 忠清北道忠州市 漢州
北原小京(北原京) 678年(文武王18年) 高句麗:平原城 江原道原州市 朔州
金官小京(金海京) 680年(文武王20年) 金官郡(金官伽耶国都) 慶尚南道金海市 良州
西原小京(西原京) 685年(神文王5年) 百済:娘臂城 忠清北道清州市 熊州
南原小京(南原小京[7] 685年(神文王5年) 百済:古龍郡 全羅北道南原市 全州

参见

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注釋

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  1. ^ 菁州は神文王5年に既存の州から分割設置されたことについて、『三国史記』新羅本紀・神文王紀では「居烈州」からの分割とし、同・地理志・康州条には、「居陁州」からの分割とする。
  2. ^ 2.0 2.1 『三国史記』新羅本紀・神文王6年2月条
  3. ^ 百済故地に対する所夫里州の設置とほぼ同年のことと考えられている。(→井上1972)
  4. ^ 『三国史記』36・地理志・全州条は、完山州の設置を真興王16年(555年)とし、同26年(565年)にいったん廃止、神文王5年(685年)に再設置したとするが、対応する真興王本紀の記事には州治を比斯伐(慶尚南道昌寧郡)としていたり、6世紀中頃には全羅道は未だ百済の支配下にあるために、は下州の誤りであると考えられている。(→井上1980)
  5. ^ 『三国史記』35・地理志・溟州条には、溟州はもとは高句麗の河西良であり、分注には何瑟羅とある。新羅本紀や異斯夫伝の本文には何瑟羅州の名で現れる。
  6. ^ 元の比列忽州、後の朔州に相当する州の687年時点の名称について、井上1972は牛首州とするが武田2000により首若州とする。なお、『三国史記』35・地理志・朔州条では朔州の由来を、本文は善徳女王6年(637年)に設置した牛首州とし、分注文武王13年(673年)に設置した首若州とする。同書・新羅本紀では、善徳女王・文武王の本紀記事には州の改称についての直接的な記事は見られず、景徳王の本紀における地名改称記事(景徳王16年(757年)12月条)では、首若州を朔州としたとしている。
  7. ^ 景徳王によって改めて南原小京と改称されたわけではない。他の小京は『三国史記』地理志の各条に改称記事が見られるが、南原小京のみ改称の記事が見られない。